19世紀的(ウィリアム・モリス的理想主義と言い換えても良い)アルチザンの世界から20世紀以降の「デザイン」の世界への重要な架け橋となったバウハウス。その最も苦悩を抱え解散に至った「デッサウ」時代の展覧会が、来月末より開催されます。保守派の強い要請で1924年にバウハウスへの財源があからさまに削減されたため、バウハウスは新たな活動の場を探さねばならなくなります。それを機に移 転したデッサウでは、財政上の好況もあり、バウハウスは地方自治体の重々しい造形大学となります。ほとんどのマイスターがデッサウへと引っ越し、卒業生た ちも准マイスターとして工房の指導を引き受けます。1926年から1932年までデッサウでは芸術と建築の有名作品、並びに影響力の強いデザインが生まれ ます。また、この時期、バウハウスのさらなる存続をめぐる絶え間ない対立の責任を負って、ヴァルター・グロピウスは校長の職を辞することになります (1928年4月1日)。その後継者となった、スイス人建築家ハンネス・マイヤー(1889‐1954)の活動は「社会の調和ある状態」をめざし、経費節 約の大量工業生産路線により幅広い住民階層を対象とした製品が調達可能となるはずでした。しかしここでも彼のもくろみは成功したにもかかわらず、切迫した 内政状況のなか1929年にハンネス・マイヤーのマルキシズム的姿勢が町の有力者たちに問題視され、1930年に彼は解雇されます。その後、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886‐1969)のもと、バウハウスは1930年に補助的役割の芸術および工房部門を伴う一種 の建築工科大学となります。ナチスが選挙で勝った後、バウハウスは1932年9月にデッサウも追われ、学校の移ったベルリンで、再出発したわずかな間、バ ウハウスはなおも存続しつづけますが、1933年にナチスの圧力によりバウハウスは自ら解散をしたのです。(デッサウ時代のバウハウスとは?)
次の世代へ確かな何かを残しながら(その当時の)状況に敗北してゆく歴史から学ぶことは非常に多いと思う。(そう感じたキュレーターの慧眼ぶりには敬意を送りたい) 「『今現在の状況』と戦う」にしろ「次の世代に何かを残す意志をもってモノを作る」にしろ。・・・スタルクのように自己の悦楽的満足感、だけのデザイナーは廃業するしかない時代なのだろうけどね、きっと。
コメント